川崎宿

【川崎宿】

半七捕物帳には、川崎宿そのものを詳しく描いた場面は見当たらない。
しかし、半七が横浜や箱根へ向かう話はいくつかあり、その道中では川崎宿を通ったはずである。

「蟹のお角」と「異人の首」では横浜へ向かい、「山祝いの夜」では箱根へ出かけている。
また「大森の鶏」では川崎大師を訪れ、その帰りに川崎宿の万年屋で昼飯を食べたとみられる。

 

川崎宿は、東海道が整備されてから二十二年後の元和九年(一六二三)に、宿駅として追加された。
江戸方面から六郷の渡しで多摩川を越えると、その先はすぐに川崎宿である。旅人にとっては、江戸を離れて最初にたどり着く宿場町でもあった。

また川崎宿は、江戸から川崎大師へ向かう主要な道筋の途中に位置していた。
「大森の鶏」で川崎大師を訪れた半七も、六郷の渡しを越え、川崎宿を通る道を往復したのだろう。

物語の中で大きく描かれることはなくても、半七は横浜や箱根へ向かうたびに、この宿場を歩いていたと思われる。
川崎宿は、事件の舞台というよりも、半七を江戸の外へ送り出す道の途中に、静かに置かれた場所だったのかもしれない。

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川崎宿交流館にあるジオラマ

 

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ここを左に行くと川崎大師

五條天神

【五條天神】

「人形使い」の若竹紋作は、五條天神からほど近い横町の小さな小間物屋の二階に住んでいた。

物語の時代、この五條天神は下谷の瀬川昌億の屋敷内に祀られていた。

五條天神は、医薬の神である少彦名命をはじめ、大己貴命、菅原道真を祭神としている。

その歴史は古く、上野山内、黒門町、瀬川昌億の屋敷内と移され、大正十三年に現在の上野公園忍坂へ遷座した。

 

現在、瀬川昌億邸跡周辺はアメ横商店街の一角となっている。

多くの観光客が行き交い、食べ歩きを楽しむ人々で賑わう雑多な通り沿いに、五條天神旧跡はひっそりと残されている。

 

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半七捕物帳を思い浮かべながら歩くと、江戸の横町に暮らした若竹紋作も、このあたりを日常の風景として歩いていたのだろう。

活気あふれるアメ横の喧騒の中に立つ旧跡は、江戸から現代まで続く町の時間の流れを静かに伝えているように感じられる。

 

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現在の五條天神。上野公園内にある。

湯島・湯島の天神

【湯島(の天神)】

「かむろ蛇」に登場する大吉は煙草屋で、色白の華奢な男として描かれている。彼はかつて湯島の茶屋にいたことがあるという。

また「河豚太鼓」では、菊園一家が本郷湯島の天神の社殿改築落成にともなう、正月二十五日の御縁日から十六日間のお開帳に出かけている。菊園一家が湯島へ参詣したことが、玉太郎行方不明事件の発端となった。

「人形使い」は、境内であやつり人形芝居をしていた一座の人形使いの間で起きた事件である。

 

現在では学問の神様、合格祈願で名高い湯島天神だが、江戸時代には、天保の改革で禁止されるまでは富くじで知られた神社でもあった。

半七捕物帳の「かむろ蛇」や「河豚太鼓」が描く安政・文久のころには、富くじはすでに禁じられていたはずだが、それでもなお湯島天神は多くの人を集める賑やかな場所だったのだろう。

また、湯島天神の始まりは、太田道灌が北野天神を江戸城中に勧請したことによると言われている。

 

湯島天神の周辺は、上野広小路にも近く、当時から多くの人で賑わう場所だったのだろう。

茶屋も多く、人の往来も絶えなかったはずである。そうした雑踏の中では、子どもが迷子になってしまえば、たやすく見つけ出せないほどの混雑だったのではないかと思われる。

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半七捕物帳を読むと、湯島天神は単なる名所や信仰の場ではなく、人が集まり、願いごとをし、遊び、時には思いがけない事件の入口ともなる場所として描かれていることがわかる。

浅草三好町

【浅草三好町】

「雷獣」は、浅草三好町で雷が尾張屋という米屋に落ちたことを発端として事件が起こる。

 

浅草三好町の近くには、幕府の御米蔵がずらりと並んでいた。

そうした土地柄を思えば、この町に米屋があるのもいかにももっともである。

物語の発端となる尾張屋もまた、そうした町の性格をよく表す店だったのだろう。

町名の由来も興味深い。

オランダ船が来航した際、この町の河岸に船首を向けて碇泊したことから「三好町」と呼ばれるようになったという。

江戸の町の一角でありながら、米蔵の並ぶ実務の土地であると同時に、外から来た船の記憶も地名にとどめているところが面白い。

 

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台東区蔵前二丁目

松本城下

【松本城城下】

「人形使い」では、文作と冠蔵の二人が一座を組み、公演旅行で中山道の諏訪から松本の城下へ向かっている。

江戸の町を離れた松本城下が、旅芸人たちの巡業先として描かれているのである。

 

松本城の歴史をみると、江戸時代を通じて石川家、小笠原家、戸田家、松平家、堀田家、水野家の六家二十三人が城主を務めたという。

そして享保十一年(一七二六)以降は戸田家が入封し、そのまま明治の廃藩置県を迎えた。

 

この「人形使い」の事件は安政末年の出来事であるから、時期としては一八六〇年から一八六一年ごろにあたる。

このころの松本城主は戸田光則であった。

幕末の空気は江戸だけでなく、当然のように松本の地にも及んでおり、松本藩もまた軍事、民事、財政の改革を迫られていた時期であった。

 

江戸から遠く離れた松本の城下にも、幕末の不穏な空気は押し寄せていた。

それでも、文作と冠蔵の人形芝居は、城下の人々にほんのひととき、世の中の重苦しさを忘れさせる楽しみを届けたのかもしれない。

 

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新宿の玉川上水

【新宿の玉川上水】

「正雪の絵馬」では、丸多の主人・多左衛門が新宿の玉川上水あたりで死んでいたとされている。

玉川上水は江戸の町を支えた重要な水路であり、半七捕物帳の中では、その水辺が事件の背景として使われている。

 

現在、その流れの一部は新宿御苑の無料エリアで見ることができる。

訪れた時は石積みの水路だけが静かに残り、水はほとんど流れていなかった。

その少し拍子抜けするような風景が、かえって江戸の玉川上水が遠い過去のものになったことを感じさせる。

それでも、半七の物語を思いながら立つと、この乾いた水路の跡の下に、かつて人の暮らしを支えた水の流れがたしかに通っていたのだと思わされる。

 

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川崎の厄除大師

【川崎の厄除大師】

「三つの声」では、庄五郎、藤次郎、平七の3人が川崎の厄除大師へ参詣する途中で事件が起きる。

「大森の鶏」は、半七と庄太が正月二十一日の初大師に参詣した帰りの話。明治になってから半七老人が語るところによると、岡っ引きは信心深い者も多く、現役の頃は半七自身も暇を見ては年に二、三回は川崎大師へ参詣していたらしい。

 

川崎大師は平安時代の終わり頃、平間兼乗と高野山の尊賢上人の二人で建立したと言われる。徳川11代将軍家斉公が厄除けのために参詣したことにより、江戸庶民の間でも「厄除けのお大師さま」として人気が出た。

 

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