【六郷の渡し】
半七捕物帳で六郷の渡しが描かれる作品に「大森の鶏」がある。
この物語で、半七と庄太は嘉永四年の正月二十一日、川崎大師の初大師へ参詣する。その帰り道、六郷の川端まで来ると、十人ほどの人が渡しを待っていた。そこで庄太がひとりの女に声をかけ、煙管の火を借りる場面が描かれている。
「大森の鶏」以外でも、半七はたびたび六郷の渡しを利用している。
「蟹のお角」では、暮れないうちに六郷の渡しを越えて神奈川に泊まろうと、一行が先を急ぐ場面がある。また「異人の首」では横浜へ、「山祝いの夜」では箱根湯本へ足を延ばしている。
江戸から東海道を西へ向かう半七にとって、六郷川を渡ることは旅の途中の馴染み深い風景だったのかもしれない。
多摩川の下流は、かつて六郷川と呼ばれていた。
江戸時代の初期には橋が架けられていたが、たびたび洪水で流失した。貞享五年(一六八八)の大洪水で橋が流されて以降、長く船による渡しが続いた。
当初、渡船は幕府から江戸の商人たちが請け負っていたが、宝永六年(一七〇九)には川崎宿が請け負うようになった。
弘化元年(一八四四)の渡船料は一人十二文。当時、蕎麦一杯が十六文ほどだったことを考えると、川を一度渡るにもそれなりの料金が必要だったことがわかる。
歌川広重の東海道五十三次「川崎 六郷渡舟」には、夕日に染まる空と雪をいただいた富士を背に、舟が川崎の岸へ向かう渡しの様子が描かれている。
対岸には川崎宿の家並みが広がる。半七もまた、横浜や箱根へ向かう折には、このように舟の上から六郷川の景色を眺めたのだろう。
現在の河畔には、明治元年十月、明治天皇が東幸の際に六郷川を渡った様子を表したレリーフがある。このときには、橋のない六郷川に二十三隻の舟を並べた舟橋が架けられ、明治天皇はその上を渡ったという。
橋のなかった時代、江戸から川崎、そしてその先へ向かう人々を運び続けた六郷の渡し。
半七にとってもここは、事件そのものの舞台というより、江戸を離れて横浜や箱根へ向かうたびに越えていった、旅の境目のような場所だったのかもしれない。

















